「自分の限界を知り、公のために生きる」―高校中退から逆転成功した起業家の経営哲学

宮内あきらさん/株式会社リエイト代表取締役

(プロフィール)
高校中退後に鍼灸治療を学び、6年の修業期間を経て「ビファイン治療院」を開業。2カ月で黒字化を達成する。その後は整体院やホワイトニングサロンなどを多角的に経営。2011年以降は待機児童問題が深刻な世田谷区内で保育園事業も展開している。

代々医師を輩出するエリート一家に生まれながら、勉強ができずに高校を中退し、職を転々とする日々……。鍼灸治療院や整体院、保育園などを幅広く展開する株式会社リエイトの代表取締役・宮内あきらさんは、波乱に満ちた前半生を送ってきた。

「他人よりも劣っている自分を認めたからこそ事業を広げることができた」。そう振り返る宮内さんに、挫折を乗り越えて見つけた経営哲学、そして専門家ぞろいの若手メンバーをマネジメントする秘訣を伺った。

1

「高校に行けないぐらいで心折れてどうする!」今も生きる祖母の教え

——まずは、宮内さんが起業に至るまでのストーリーを教えていただければと思います。ホームページに書かれていた「おばあちゃんとのエピソード」はとても印象的でした。

高校を中退して、学歴のない自分が何をすればいいのか悩んでいたときにきっかけをくれたのが、座骨神経痛で悩んでいた祖母でした。鍼灸という道があることを知ったときに、「この技術を身に付ければ治してあげられるんじゃないか」と。

当時、鍼灸の学校は数が少なく、倍率もとても高かったんですが、ダメもとで受けてみたら入ることができました。それまではいろいろな仕事を転々としていたんですが、入学後はどっぷりと鍼灸にハマりましたね。「こんなに面白い仕事はないぞ」と。祖母に施術したところ、驚くような回復を見せました。

——鍼灸の道に入る前はどんなことをしていたんですか?

引越し会社からトラックドライバー、鮮魚店など、いろいろな肉体労働を経験しました。高校を辞めてからは転々と仕事を変え、バイトを探し続けているような感じでしたね。不動産会社の厳しい上下関係とノルマのもとで営業をしていたこともあります。

——その頃から独立志向はありましたか?

ありました。本当はもともと、医者になりたかったんですよ。家族は、祖父も父も兄も医師をしていて。そんな中で僕だけ勉強が全然できず、中学校時代の偏差値は30台でした。何とか高校には入ったものの、授業についていけず辞めてしまったんです。

2

——医者の一家に生まれ、プレッシャーも並々ならぬものがあったのではないでしょうか……?

そうですね。そんな中で助け舟を出してくれたのが祖母でした。明治39(1906)年生まれの、「日本男児たるもの、こうあれ」みたいな、古き良き日本人の典型といった人で。「たかが高校に行けないぐらいで心折れてどうする! お前はいずれ名を成す男だ」「一兵卒で終わってもいいから、決して倒れるな」と僕に言い続けてくれました。その励ましのおかげで、何とか自分のプライドを保てたんだと思います。

古い時代の話もたくさん聞きました。そこから歴史に興味を持ち始めて、高校を辞めた後は本ばかり読んでいたんですよ。歴史モノばかり。それが今につながっている部分も大きくて、私は『貞観政要』(中国・唐代の太宗の言行録)を経営のマニュアルにしています。日本で言えば江戸時代の思想家・石田梅岩が起こした倫理学の「石門心学」も、多いに参考になっています。

——その頃のおばあちゃんの教えが、今の宮内さんにつながっているんですね。

あの教えがなかったら、人生どうなっていたか分からないです。崩れそうになるたびに、「戦っていくしかないな」と奮起させてくれましたね。

最初に開業したときには、変な人もいっぱい来たんですよ。全然知らない雑誌の広告掲載料に20万円を払って、まったく効果がないという経験もしました。まだ患者さんが全然いない頃に電話が鳴って、「予約だ!」と思ったらそんな営業の電話ばかり。「仕入れ業者にもなめられないようにしないと」と、やけにかたくなになってしまった時期もありました。取引がうまくいかなくなって。

そんなときに石門心学を改めて勉強して、気持ちが楽になりました。「相手を儲けさせて、自分も儲けられるラインを常に見つけなさい」「お互いに儲けられなければ商いではない」といったことが書いてあるんです。患者さんに対してはもちろん、取引業者との接し方でも大切にしています。

30人を超えるメンバー全員と月2回の面談

——独立して鍼灸治療院を開業したのは何歳のときですか?

30歳の頃ですね。6年ほどの修業期間を経て独立しました。実は、開業2カ月目には黒字になっていたんですよ。

当時は安くて早いクイックマッサージの全盛期。その中であえて、鍼灸治療を前面に押し出したんです。お医者さんでもない、リラクゼーションでもない価値を考え、追求したことが良かったのかなと思います。

どんなに技術があってもそれだけではダメで、「接客」も重要だと考えていました。接客って何だ? サービスって何だ? と考えて行き着いたのは、昔のお坊さんのようなあり方だったんですよ。人々の愚痴も聞いて、答えを出してあげるような存在。今でいうと、美容師さんなんかも近いかもしれませんね。治療空間というプライベートな場所で中立的に患者さんの話を聞けるし、その内容は誰にも言わず、その場で完結する。そんな姿勢を続けていたら、リピート率300パーセント、「1人施術をしたら3人紹介していただける」という感じで成長していきました。

4

——店舗数を増やしていく中では専門職のスタッフをマネジメントしていくことも必要になると思うのですが、宮内さんはどのような工夫をされているのでしょうか?

若いメンバーが多く、下が育ちきっていない状態なので、いろいろと試行錯誤を続けています。家族のように強固な結びつきがある組織作りもしてきましたし、一方では自分がいなくても回るような体制にもしていく必要があると思っています。

新しいメンバーが入っては辞める、という繰り返しに陥ったこともありました。その経験から始めたのが、全員と月に2回行う個人面談です。

―社員数が30人を超える規模で全員と月2回というのは、すごいペースですね。

そうですね。2週間に1回、仕事から恋愛相談までどんな内容でもいいから話してもらうようにしています。

若い人って、長所より短所を気にする傾向があると思うんですよ。「自分は他人より劣っている」という前提で物事を考えてしまう。なので、短所を長所に変えられるように働きかけています。仕事でうまくいかないと悩んでいるメンバーに何が必要かを聞いたら「経験と技術が必要です。それがあれば強くなれます」と言う。でも、それは今日明日で得られるものではないんですよね。そうした状況で本当に必要なものは、自分自身の心の持ちようだと思うんです。

技術的に苦手な分野があるなら、人よりも事前準備に時間をかける。人と接することが苦手だったら、患者さんが語ってくれる話に人よりも興味を持って勉強する。そんなことを話しています

公に対する意識を持っていれば勝てる

―2011年からは、新たに保育園の経営に乗り出しています。何がきっかけとなったのでしょうか?

そもそもの動機は、「同じ職場で働く仲間のため」でした。どんな仕事でも同じだと思いますが、女性はキャリアを積む中で、いちばん良い時期に出産で職場を離れざるを得なくなることがあります。待機児童問題が深刻化している中、そのまま復帰をあきらめてしまうメンバーも出てきて……。別れちゃうのは寂しいな、と思ったんです。

5

——「企業内保育所」のように、自分たちのためだけにやるという考えはなかったんですか?

社会的に意義のある事業であることは百も承知だったので、「どうせやるなら地域の役にも立ちたい」と。鍼灸院で患者さんから保育園探しの悩みを散々聞いていたことも大きかったですね。経営的に見れば数年間はどう考えても赤字になってしまうんですが、それでもやる意味はあると思いました。

——「世の中に貢献する」という考えは、マネジメントにも大きな影響を与えているのではないでしょうか?

はい。「携わるすべての人が幸せになれる社会を」という理念を掲げ、現場で働くメンバーにも「自分はなぜ保育士になったのか」という思いを忘れずに子どもたちや保護者の方々と向き合ってもらうようにしています。

例えば当社が運営する保育園では、「連絡帳」に毎日お子さんの写真を貼ってお渡ししています。保育士は日中、子どもたちと関わりながらベストショットを撮れるように頑張っていますよ。これがあると親御さんはとても安心できるし、本当に喜んでもらえる。それが保育士のやりがいにもなっています。子どもたちが大きくなって、いずれ自分の子を持ったとき、育児で悩んだときなどに見返して、「私も同じだったんだな」と心を落ち着かせてくれたらいいな、と思っています。

——経営者として事業の拡大を図るという姿勢はもちろんお持ちだと思うのですが、宮内さんからはそれ以上に「公のために貢献したい」という思いを強く感じます。

それは私自身の、挫折の経験が影響しているのかもしれません。挫折を味わう中で、「個人として勝負できないんなら、公に貢献できる生き方をしよう」と考えるようになって。例えば、会社を設立してもう12年になりますが、売上のグラフなんて去年初めて見たんですよ。それくらい無頓着にやってきたんです。

ただ、社員一人ひとりを一生懸命育てることには妥協しませんでした。それも世の中の、誰かの役に立つためには必要だと思ったから。数字もロクに見れないようなダメな私でも、公に対する意識を持っていれば勝てるということなんだと思います。

―会社のメンバーには、どんな風にその思いを伝えていますか?

「自分の力はどれぐらいだろう」と誰しも考えると思うんです。例えば私は5まで行った。だから5までは教えられる。「だけどこの先は育ててあげられないから、何とか君の力で6から9まで行ってくれ」と。そんな風に、順番にバトンを受け渡していくような教育をしています。

もう一つは、「5年間」という期限を提示しています。私が培った技術やノウハウを5年間で伝えるから、その後は幹部として残るか、それとも独立開業するか他の会社にいくのかを真剣に考えなさい、と。

3

「できない」ことをちゃんと伝える勇気

——本当は別れるのは寂しいけれど。

そう、寂しいけど。そこもせめぎ合いなんですよ。本当は残ってほしいんですが、あえて他を見せたり、独立を勧めたりしています。そうしないと組織が成長しない。ある種の緊張感のようなものが必要だと思っているので。

——「自分が教えられるのはここまで」と、自身の限界も正直に伝えながら、その思いを語っているのですね。

患者さんの中に、とある上場企業で経営陣として働いている方がいるんです。その方に「私のいいところを教えてください」と聞いたんですよ。すると、「宮内先生ほど人に泣き言を言える人間は、そうそういないよね」と(笑)。確かに私は、平気で泣き言や愚痴をこぼしてしまうんです。言わないと我慢できないんですよ。その愚痴がある意味では原動力になって、人を巻き込んでいくことにつながっているのかもしれません。

——昔から、自分の弱みも正直に話す性格だったんですか?

いえ、かつては違いましたね。鍼灸の道に入ってから身につけたことです。たくさんの患者さんと向き合っていると、どうしても治らない方もいます。そんなときに「治すことはできないけど、少しでも楽になれるよう常に一緒にいます」と。「いつでも電話してきてください」というスタンスだったんです。だから朝7時だろうが、夜中の3時だろうが対応していました。約束したから。

思えば、6年だけの修行で開業したのが早すぎたんでしょうね。経験がない私にできることは、一緒に寄り添うことしかありませんでした。「治す技術がない」ということをちゃんと言う勇気も必要。一番よくないのは、できもしないのに「絶対治りますから」と言って、進行性の症状をどんどん悪化させてしまうことです。そんな経験が、今の自分を形作っているんだと思います。

——ありがとうございます。最後にぜひ、今後の展望も教えてください。

私たちのような事業者が増えれば、幸せになる人も増えると信じて活動しています。自分の作った理念をしっかり守っていく。その上で事業を拡大していきたいですね。

治療院では高齢者だけでなく、働く若い人たちのケアも重視しています。若い患者さんの中には、あまりにも体や心を酷使し過ぎている方が多い。相談を受けて、「その仕事はもう辞めたほうがいい」とアドバイスすることもありますよ。

もう一つは今、ラオスで現地の学生さんを支援したり、井戸を作ったりという活動をしています。この延長線上で、鍼灸を広げる取り組みにも挑戦したいと思っているんです。人の優秀さは、どこでも変わらないじゃないですか。環境と自分の考え方次第で人生が決まる。ラオスでも、技術があれば1本5円の鍼で治療家になれるんですよ。この話を聞いて、寄付を寄せてくださる方も増えています。

最終的に僕が死んだときには、これまで接してきてくれた人に囲まれた航空写真を撮ってもらって、それを棺桶に入れてもらいたい。それが夢です。「これだけの人と関わって死んだんだな」と思ってもらえるような人生にしたいんです。そのためにも、公のために生きていくしかないと思っています。

(インタビュー・文/多田慎介、編集/井上こん)

この記事をシェアする

0 0

この記事のテーマ同じテーマの記事を探せます。